top of page

​ブラック本丸によろしく

鳥の声が、聞こえる。

今日もまた朝が来たのだろう、小鳥のさえずりが本丸の庭に響いていた。

朝の柔らかい日差しが、薄く開かれた目に容赦なく突き刺さる。

 

一体いつ眠ったのか、そもそも今本当に目覚めているのか、はっきりとしない意識のまま和泉守兼定は酷く重い体を起こした。

庭に臨んだ部屋の中、布団も敷かず横たえられていた体からは、警告のように鈍い痛みが発せられている。

いや、どれだけ上質な布団で眠っていたとしても、おそらくこの痛みは変わらずこの体を支配していたのだろう。

気休め程度に巻かれた包帯に目をやると、赤黒い染みが昨日よりもその範囲を広げていた。


 

「……………クソ……」


 

悪態をつこうが何をしようが、その傷が癒えることはない。

審神者の居なくなった……いや、審神者を追放したこの本丸で、彼らの傷を癒せる者は存在していなかった。

彼らの本体たる刀を手入れさえすれば、その跡すら残さず消えるはずの傷は、逆に手入れをしなければ血を止めるだけでも長い時間を要する。

 

彼らの主であった男を追放したのは、もうどれだけ前のことなのか分からない。

暴力、苦痛、屈辱、喪失、そうしたものしか生み出さない、主とは名ばかりの無能な男に、彼らは反旗を翻した。

本当は殺してやりたかった、だが主を殺せば彼らは今の肉体を失い、ただの考えることひとつできない刀へと戻る。

ゆえに死なない程度にたっぷりと痛めつけ、二度とここへ戻って来る気が起こらないようにしてやった。

 

その報いが、この痛みだ。

だがあの男が居たところでこの痛みが消えたとは限らない、そもそもきちんと手入れをするような者だったならば、彼らも反旗を翻すことは無かったのだから。


 

「兼さん……良かった、目を覚ましたんだね」


 

耳慣れた声が聞こえ、虚ろに思考を巡らせていた和泉守兼定は緩慢な動きで顔を上げた。

廊下を渡ってきたのは、彼の助手を自称する堀川国広だった、同じように全身のあちこちに傷を負い、片足を引きずるようにして歩いている。

堀川国広は和泉守兼定の隣に腰を下ろすと、はい、と手にしていた椀を手渡した。

湯気をたてるその中には、白湯にほんの少し濁りを混ぜたようなものがつがれている、薄い薄い、粥というにはおこがましいような代物だ。


 

「………もう、あんまり食料も無いからね」

 

「ああ……腹んなかに入れられるもんがあるだけましだ」


 

受け取ったそれをすすると、口の中の傷がまた鈍い痛みを訴える。

人の身とは異なる存在の彼らは食事をしなくても飢え死ぬことはない、だが、それと空腹を感じないということは別物のようだった。

少しでも温かいものを腹に入れたことで、体の重みがましになったような気分になる。

ふう、と思わず息をついて―――不意に、違和感を覚えた。

 

部屋から見える庭に、ひとつの違和感、おかしな気配。

反射的に腰の刀……己自身とも言えるそれに手をかける和泉守兼定に、堀川国広もはっと庭へ目を向けた。


 

「………そこに居るのは誰だ、出てこい」


 

低く、獣の唸り声のような声で、和泉守兼定が問いかける。

一呼吸開けて、さくり、さくり、と草を踏む軽い足音が庭の方から聞こえた。

 

姿を現したのは、二人の男。

一人は彼らも見覚えのある姿をしていた、緩い波のある紫の髪に、和泉守兼定と似た趣向の服装、胸元の花飾り、彼と同じ兼定の名を抱く歌仙兼定だ。

だが、どこに行っても血の匂いのするこの本丸には似つかわしくなく、傷の一つも無ければその身なりもきちんと整えられている。

そして、その歌仙兼定を伴う、もう一人の男。


 

「てめえ…………審神者、だな?」


 

白い浄衣を纏い、顔を烏帽子から垂らした白い布で隠した、あの男と同じ職につく者。

本来の審神者を失ったこの本丸には、既に数度、同じように初めての一振りを従えた新たな審神者が送り込まれている。

だが、彼らは毎度その新たな審神者を追い返していた、もう、二度と奴らを信じるつもりは無い。

 

和泉守兼定はすらりと抜刀すると、その切っ先を現れた審神者へと向けた。

審神者の隣で歌仙兼定が同じく刀に手をかける、が、審神者はそれを片手で制してみせた。


 

「その通りだ、俺はお前たちを助けに来た」

 

「黙れ、顔も見せねえ奴のことを信じられるか……

 このまま大人しく帰れば命だけは助けてやる………とっとと消えな!」


 

空っぽの腹に怨嗟と苛立ちを込めて、和泉守兼定が吠える。

これまでの審神者を怯え逃げ帰らせたその怒号に、しかし今回の審神者は動揺一つ見せなかった。

 

和泉守兼定の声にか、それともこの審神者の気配にか、異変を察知した刀剣男士たちがひとり、ひとりと庭の周囲に姿を現した。

皆一様に体のどこかしらに傷を負い、その瞳に剣呑な光を宿している。

審神者は彼らのことをぐるりと一度見渡すと、おもむろにその顔を覆い隠す布へ手をかけた。


 

「主、それは」

 

「良いって、別に減るもんじゃないし」


 

軽く眉を寄せ諌める歌仙兼定の言葉を聞き流して、審神者はその顔を覆い隠す布を外した。

人間味のない白布の下、薄く化粧を刷いた顔が顕になる。

年頃は彼らが追い出したあの男と同じ程だろうか、目尻に朱を引いた黒い瞳は、憐れむような光を湛えていた。


 

「……お前たちがどんな目にあったかは、簡単には聞いてる

 信頼しろなんて言うのは身勝手かもしれない……けど、このままでいても何にもならないのはお前たちだって分かってるはずだ」


 

淡々と、だが憐憫を込めた声で告げられた言葉に、その場に集った面々がぐっと息を詰める。

彼らにも分かっていた、このまま、眠るとも覚めるとも分からないような日々を続けたところで、何も生み出しはしないことなど。

流れ出る血は止まらず、空いた腹は満たされず、喪われたものは還らず、抉られた心は壊れたままで。

いつかあの男の力によって生み出されたこの体が、崩れ消え去り何も残さぬまま無くなることなど、分かっていた。

 

す、と審神者がその手を彼らへと差し伸べる。

真っ直ぐな瞳が、射抜くように彼ら一人ひとりへと向けられた。


 

「どうか、この手を取ってくれ

 そうすればここであった事など忘れて、お前たちは新たな主の下で刀として新たな生を受けることが出来る」


 

その言葉はひどく魅惑的で、けれど、誰ひとりとしてその手を取ろうとはしなかった。

深く、深く、その肉の奥深くまで刻まれたかの男の裏切りは、その甘露を罠ではないと断ずることを許さない。


 

「…………………うるせえ」


 

押し黙っていた和泉守兼定が、絞り出すように吐き捨てた。

憎しみ、怒り、虚しさ、やり場のない感情たちを抜き身の自身に込め、ギリと審神者を睨みつける。


 

「そう言って……どうせまたお前たちは裏切るんだ!!オレたちを刀とも、人とも扱わず!!ただ己の欲のままに虐げる!!

 もう………もう何人たりとも俺の主とは認めねえ、オレの主は、かつて俺を振るったただ一人だけだッ!!!!!」


 

ザッ、と疾風のように庭へと駆け下り、一歩も逃げることさえできない審神者に向けて刀を振り上げる。

その首を狙って振り下ろした刀が、ガキンと大きな金属音を立てて弾き返された。

手が痺れるほどの衝撃にぐっと呻き声をもらす、己の一撃をいつ抜いたのか真剣で弾いた歌仙兼定を、血走った目で睨みつけた。

 

息もつかぬまま次の一撃を繰り出そうと構える、が、その身体に力を込めることができずに和泉守兼定はがくりと膝をついた。

取り落とした己の本体とも言える刀剣を握り直そうと視線を巡らせ、その姿を収めて目を見張る。


 

「…………ぁ………」


 

刀身の中ほどから先を失った、その姿。

ガイン、と弾き折られた片割れが今更のように庭の灯篭へぶつかり音を立てる。

 

力の差は、歴然だった、肉体を得て幾ばくもない者の太刀筋では、ない。

思わず見上げた視界に、冷たい表情をした歌仙兼定と、その瞳を今にも泣き出しそうに歪めた審神者が、映る。

 

そしてそのまま崩れ落ちるように倒れ伏した和泉守兼定の身体は、初めから何も無かったかのように、砕かれた刀一つを残して霧散した。


 

「…………悪いな、一人くらいは、見せしめが必要だった」


 

酷く掠れた声で、苦しげに漏らされる言葉。

だが審神者はぐっと一度強く強く目を閉じると、きっとそれを開いて改めてそこに並ぶ面々を見渡した。


 

「……俺は新たに着任した審神者ではない!この本丸の制圧を命じられた者だ!!

 だが先程の言葉に偽りは無い!我が手を取る者には新たな主を与えることを約束しよう!!

 選べ……新たな主の下、刀としての宿命を全うするか!!!この地でその命、花と散らすか!!!」


 

朗と放たれた声が、静まり返った本丸に響き渡る。

二人を遠巻きに取り囲む刀剣たちの間に、ざわり、と波のような動揺が走る。

審神者に従えられた歌仙兼定が、ちゃきりと刀を構え直した。


 

「…………その言葉、ホントだね?」


 

静寂を割ったのは、彼らの中の一人、乱藤四郎だった。

本丸に残る短刀はもう多くない、兄弟たちが次々と無理な戦に赴き、そしてその命を散らしていくのを、彼は幾度も見届けた。

よせ、という制止の声を背中に聞きながら、乱藤四郎は静かな足取りで審神者へと向かう。

彼の体にも無数の傷が残されている、痛々しげなその姿に、審神者が少しだけ目を逸らした。


 

「ああ……こういう所から来た刀は扱いが少し難しいそうだから、きちんとした力ある審神者の下へ送られると聞いてる」

 

「……ボクはまだ、死にたくない……生きて、戦いたい、ボクが認めた主の下で、この刀を振るいたい、このまま無駄死になんてまっぴらごめんだよ」

 

「分かってる、大丈夫……今度こそ、お前の願いは果たされるよ」


 

ようやくその顔にほんの少しだけ笑みを浮かべて、審神者が改めて乱藤四郎へと手を差し伸べる。

乱藤四郎も、久しく忘れていた表情を作ろうと口の端を持ち上げかけて――どん、と背中に衝撃を感じて、目を見開いた。

 

じわり、じわりと慣れ親しんだ感覚、痛みが広がる、目の前で愕然と表情を強ばらせる審神者の白い浄衣に、緋が散る。

痛みの元、自らの胸のあたりに視線を落とすと、じわりじわりと広がっていく緋色の中心から、不気味に濡れる刃が姿を現していた。

その切っ先が掠めるのは先程まで審神者が立っていたはずの場所、しかしその体は背後に立つ者に引き寄せられ、既にその場には無かった。


 

「悪いが、こいつには傷一つ付けさせるわけにはいかないぜ」


 

審神者を退かせた者、白一色をその身にまとった鶴丸国永は、凶刃を繰り出した者に不敵に笑ってみせた。

その刃の持ち主……堀川国広は、乱藤四郎の体からずるりと刀を抜くと、濁った目のまままるで障害物を除けるかのごとくその体を突き放した。

どさりと地に倒された乱藤四郎の唇が何かを紡ごうとするかのように微かに戦慄き、やがて、ごぱりとその隙間から紅いものを溢れさせる。

ガキン、と、鞘に収まったままの短刀が折れる音がし、その身体は夢幻のごとく消え失せた。


 

「……例えその言葉が本当だろうと、僕はお前を許さない…………」


 

どろりどろりと、濁った瞳のままで、堀川国広は刀を構える。

憎しみだけで構成されたようなその瞳を、未だ呆然とした表情のままの審神者へと向ける。

その視線から庇うように鶴丸国永が一歩前へと進み出る、が、それよりも速く、白刃が煌めいた。

 

ガキン、と刃の打ち合う音、堀川国広の死角から繰り出された一撃に、元々手入れもされていない刀身はいとも容易く真っ二つになる。

嘘のように力が抜け、ぐらりと体を傾がせる堀川国広が、己に止めを刺した者の姿を収めようと憎しみに満ちた目を向ける、翻るは、艶やかな黒髪。

濁った目に微かな光が差す、そして、それは涙となって溢れ出る。


 

「……ああ………あぁ………………」


 

その美しい白刃の持ち主は、端正な顔を苦々しく顰めたまま、崩れ落ちる堀川国広を見つめていた。

和泉守兼定、先程消えたものと同じで、けれど違う存在。

倒れた体を起こすこともできないまま、視線だけを動かして眩しいその存在を見上げ、ただ涙を零す。


 

「……どう、して……僕の、兼さん、は、………あな、たの……ように…………」


 

その言葉を最期に、堀川国広の身体は先の二人と同じように霧散した。

ぎり、と和泉守兼定が掌に爪が食い込むのも構わず拳を握る。

ようやく呼吸の仕方を思い出した審神者は、一度深呼吸をしてから、俯く和泉守兼定の肩に手を置いた。


 

「和泉守……お前は、もう下がってても、皆が何とかしてくれる」

 

「…………それはこっちの台詞だ馬鹿、オレたちはアンタの刃なんだ、大人しく任せてろ」


 

その手を払うように和泉守兼定は審神者に背を向け、周囲を取り囲む彼らに刃を向ける。

本丸に染み渡った喪失の気配が彼らを蝕む、敵意を、呼び覚ます。

未だ躊躇い続ける数人を置きざりにして、彼らは次々と自身を鞘から抜き放った。

確かに己に向けられる殺意に、審神者はぎり、と悔しげに奥歯を噛み締めると、ひと瞬してその瞳に諦観を映した。


 

「………歌仙兼定、鶴丸国永、和泉守兼定、今剣、獅子王、蛍丸」


 

この場に伴った刀剣たちの名を、一人ひとりと口にする。

未だ姿を現していなかった者も建物の影から現れ、彼の下へと集う。


 

「この本丸を制圧しろ、………投降する者は、一人も殺すな」


 

下された命に審神者が伴った刀剣たちはそれぞれ刀を構え、傷だらけの彼らに終を与えるため、地を蹴った。

*****

鳥の声が、聞こえない。

先程まで庭のどこかで鳴いていたはずの鳥はどこへ飛んで行ってしまったのか、とどこか遠い思考で考えながら、海尋は人気のない廊下を足早に進んでいた。

 

鳥が逃げてしまったのだとしてもそれは道理だ、先程までこの本丸には怒号やら刀を打ち合う音やらが響き渡っていたのだから。

不法に占拠される本丸の奪還及び主無き刀剣男士の破壊もしくは回収、それが審神者たる海尋に下された命だった。

まともに手入れもされていない彼らは海尋の連れた部隊の敵ではなく、既にそのくだらない剣劇もほとんど終わりを迎え、本丸には静けさが戻っている。


 

「本当に、この先に敵が隠れているのかい?」

 

「ああ……隠れているというか、多分俺たちが来た時からずっと動いてない」


 

あまりの静けさに、海尋に伴われた歌仙兼定が訝しむように尋ねた。

確かに、ここは久しく人の往来の途絶えた廃墟のようにひっそりとした独特の静けさを孕んでおり、どうにも何者かが隠れ潜んでいるようには思えない。

だが廊下の奥、ひとつの部屋に、この騒ぎにも一歩たりとも動いていない刀剣が居るのを、海尋の審神者たる能力が告げていた。

時代を隔てたとすれば鈍るそれも、同時代において過つということはそう多くはない。

あちらこちらから血と死の匂いのする本丸の中を進む、どうやら造り自体は海尋が普段生活している本丸とそれほど変わらないようだ。

だとしたら、と海尋はほんの少し唇を引き結ぶ。

 

もしそうだとしたら、自分たちが今向かおうとしている、その部屋は。


 

「……………ここだ」


 

本丸の奥、本来ならばここに攻め入るには多くの障害があったであろう一室の前で、二人は足を止めた。

そこは、審神者の私室として与えられる部屋、今は主を無くしたはずの部屋だった。

 

襖の引手に手をかけようとする海尋を制して、歌仙兼定が一歩進み出る。

存在自体は感じられるとはいえその殺気の類は海尋には分からない、海尋はこくりとひとつ頷くと、その位置を歌仙兼定に譲った。

抜き身の刀を手にしたままもう一方の手を引手にかけ、その手に力を込め一気に襖を開いてすぐさま警戒の型に刀を構える。

 

ほこりの匂いのする薄暗い室内に、真っ直ぐに光が差し込む。

突如斬りつけられる、ということもなく、光の先の部屋の奥、静かに座したままの人影が、ゆっくりと顔を上げた。

緩い波のある紫の髪に、鮮やかな裏地の黒い外套、華やかな胸の花飾り。


 

「………歌仙、兼定」


 

海尋が伴った者と瓜二つ、いや、全く同じ顔をした男は、眩しそうにこちらを仰ぎ見ると緩やかに口の端を持ち上げた。

この本丸で見てきた刀剣たちと比べるとその体に刻まれた傷は少ない、だが、能面のような笑みを端正な顔に貼り付けたままのその姿は、まるで萎れた花のようだ。

 

海尋の伴った歌仙兼定も、静かに膝をつく自身と同じ姿のものを見て不快そうに眉根を寄せた。

然もありなん、生気の抜け落ちた顔でただ微笑む己の姿など、見ていてとても気持ちのいいものではないだろう。

少なくともこの歌仙兼定に敵意は感じられない、そう判断した海尋は一応警戒はしつつも部屋の中へと足を踏み入れた。


 

「……話は、聞こえていたと判断するぞ」

 

「ああ、……この部屋に居ても人の声が聞こえるとは、思っていなかったけどね」

 

「そういう術式もあるんだよ、……それで、お前の心は決まったのか」


 

部屋の奥で座したままの歌仙兼定と視線を合わせるため、海尋も部屋の中ほどで膝をついた、この位置からなら刀を抜かれたとしても一太刀で深手を負わされることは無いだろう。

とはいえ十分に危険な位置であることには違いない、ちくちくと背中に非難の視線を感じながら、海尋は目の前の歌仙兼定を見据えた。

 

歌仙兼定は眩しそうに海尋を見つめるだけで、是とも非とも返さない。

やがて焦れたように海尋が歌仙兼定へと手を差し伸べる、海尋の伴った歌仙兼定が聞こえるように舌打ちをした。


 

「どうかこの手を取ってくれ、できることなら、お前を殺したくはない」


 

差し伸べられた手を見つめる目に、微かに感情らしきものが滲む。

幾度か酷く緩慢に瞬きをして、歌仙兼定は不意に真剣な表情を作り海尋へと視線を向けた。


 

「……先程の、ここであったことを全て忘れるというのは………言葉通りの意味と取ってもいいのかい?」

 

「ああ、お前たちの記憶は基本的にその肉体を拠り所にしてる、新しい主のもとへ行くには一度刀剣の姿にならなければいけないから、その時に今の肉体と共に記憶は失う」


 

だから、と言い募ろうとする海尋から、歌仙兼定がすいと視線を外した。

思わず言葉を切る海尋の事など意に介さずに僅かに目を細め、懐かしむかのように中空を見つめ微笑みを浮かべる。

その瞳に何が映っているのか知ることはできない海尋は、ただ小さく唇を引き結んだ。


 

「…………………彼も」


 

綻ぶように、零れおちることば。

今を見つめることのない瞳は、仄温い光を宿して揺らめく。


 

「彼も、初めからああだった訳ではなかったんだ

 尤もその姿を知るのも、もう僕だけになってしまったけれど」


 

それでも、とその翡翠色の瞳が海尋の姿を捉える。

まるで何者かの面影を見るかのような居心地の悪いその視線に、海尋は思わず目を逸らした。


 

「一人くらい、それを覚えている者が居ても良いだろうと思ってね」


 

ふ、と歌仙兼定は瞳を閉ざし、ゆっくりと頭を垂れた。

その姿がどのような意図を持つのか、それを分からないほど愚鈍ではいられない。

 

沈黙がその場を満たす、やがて、海尋は差し伸べていた手を、力なく下ろした。

ぎり、と拳を握り締める、目の前の男は、ただ静かにその時を待つ。

言葉も、呼吸すら忘れていた海尋が、ゆっくりと時間をかけて長い長い息を吐いた。


 

「……………どうしても、駄目なのか」

 

「ああ、どうかこのまま」


 

もう二度と海尋と目を合わせようとはしないまま、歌仙兼定は告げる。

海尋も伏せたその目に諦観を映し、ゆっくりと己の背後に立つものを振り仰いだ。

先程向けられたものと同じ、けれど異なる翡翠色の瞳が、海尋を捉える。


 

「頼む」


 

短く、実に簡潔に下された命に歌仙兼定は小さく頷くと、頭を垂れる己と同じ姿の者の傍らへと足を進めた。

ちゃき、と手にした刀をその首元へ添える、互いに手を伸ばせば触れられるほどの距離に膝をついたままの己の主へと一度視線をやったが、海尋は静かに首を振った。

こうなったら意地でも聞かないであろう主に気づかれない程のため息を短くつくと、歌仙兼定は己自身をゆっくりと振り上げた。


 

「………せめて、雅に」


 

ひゅっ、と風を切る音がして、目の覚めるほどに緋い華が咲く。

ごとりと重い物の落ちる音、続けて、金属の砕ける音。

瞬きもせずその情景を瞳の中に収めた海尋は、微かに震える体を落ち着けるように一度深く息をして、袖元で顔を拭った。








 

「おーい!回収終わったぜー!」

 

「おう、お疲れー!」


 

庭先からかけられた獅子王の声に、海尋は審神者連絡用の携帯端末から顔を上げて答えた。

破壊された刀剣を集めてきた獅子王はそれらを庭の一角にがしゃりと積み上げる、ぞんざいな扱いに異議を唱えるものは、既に存在しない。


 

「のこっていたしざいも、あつめてきましたよ!」

 

「うん、でもあんまり残ってなかった」


 

資材の貯蓄場へ向かっていた今剣と蛍丸も、資材の入った袋を担いで姿を現す。

海尋は簡単な報告を本部へと送信し、携帯端末の電源を落とした。

ぐるりと見渡す本丸は静かで、初めてこの本丸に訪れた時のような澱みも、嘆きも、感じられない。

それが良いことなのか悪いことなのかは分からない、ただ、今この場所は静かだ。


 

「……んじゃ、お前らちょっと先に戻っててくれないか?

 もうちょいやっとかないといけない事があるからさ」

 

「何言ってんだ、とっとと済ませて帰りゃ良いだろ?」

 

「あー……まあそうなんだけど、ちょっと、な」


 

僅かに言葉じりを濁す海尋に、和泉守兼定は訝しげな表情を見せた。

先程までは多少ならず塞いでいた様子だったが、少なくとも表面上は平素の彼を取り戻している。


 

「……なら僕が残ろう、確かに全員でぞろぞろと帰る必要も無いからね」


 

なおも言い募ろうとしていた和泉守兼定の言葉を遮るように、歌仙兼定がぱんと音を立てて手を打つ。

発言の機を奪われた和泉守兼定はぐっと息をつまらせ反論の糸口を探したが、そのままつまらせた空気をため息にして吐き出した。

事の成り行きを見守っていた鶴丸国永がからかうように笑う、和泉守兼定はいよいよ拗ねたようにふんとそっぽを向いてしまった。

 

鶴丸国永は悪びれることもなく、回収され纏められていた刀剣を抱え上げた。

庭に積み上げられたそれとは違いこちらは傷こそあるもののその形を保っている、尤も、その数は片手の指で足りるか足りないかくらいだ。


 

「そういう事ならこいつの事はお前に任せとくぜ、先に戻って出迎えの準備をしておくから覚悟しておけよ?」

 

「ああ、けど何かあったらすぐに呼べよな!」


 

獅子王もその案に反論はないらしく、鶴丸国永から刀剣の半数ほどを貰い受けながらそれに続く。

蛍丸も資材袋を担ぎ直して庭へ下り、今剣の方は少し唇を尖らせてみせたが、獅子王に宥めるようにわしゃわしゃと頭を撫でられ、仕方なく帰参の列へと加わった。

 

残された和泉守兼定はもう一度不満げな視線を海尋に向ける、だが困ったように笑い返すだけで、どうやら気が変わりそうにもない。

和泉守兼定はもう一度だけ不機嫌そうに鼻を鳴らしてから大人しく他の者へ続いた、これ以上駄々をこねていても横から何か言われるだけだと悟ったのだろう。


 

「じゃあ後のことは任せたぜ、歌仙」

 

「ああ、任されたよ」

 

「はやくかえってきてくださいね!」


 

ぶんぶんと元気よく手を振る今剣を最後尾に、傍から見ればさぞ奇妙であろう集団がぞろぞろとその場を後にする。

庭先からその姿が見えなくなって、駄弁る声が次第に遠くなって。

その様子を特に何をするでもなく見守っていた歌仙兼定は、同じく何をしているでもない海尋へと目線をやった。


 

「もう行ったようだよ」

 

「…………っお前、なあ、気づいてん、なら、お前も気を、使えよ………!」

 

「はいはい、ほら、向こうを向いておいてあげるから」


 

途切れとぎれになる海尋の声に背を向けて、歌仙兼定は懐から短冊と筆ペンを取り出した。

初めて筆ペンを見せられた時はその風流感の無さに反感を抱いたものだが、なにぶんこの実用性については認めざるを得ない。

背中のむこうから押し殺した嗚咽が聞こえる、それに混じってぱたり、ぱたり、と雫の落ちる音が聞こえた。


 

「………あんまりだ」


 

しばらくその音を聞きながらゆるりと思索に耽っていた歌仙兼定の耳に、海尋の声が届く。

別に話しかけられているという訳でもないのだろう、歌仙兼定は振り返ることもなく空を仰いだ。

雲一つない青空は酷く穏やかで、それなのにまるで雨の日のようにぱたぱたと水音が聞こえる。


 

「こんな事のために……あいつらはこんな事のために人の身を得たんじゃない!!!」

 

「そうだろうね」

 

「なんだってこんな風に死ななきゃいけないんだ!!何も……お前たちと何も変わらなかったはずなのに!!!」

 

「主が違ったんだろう」

 

「違わない!!何も……俺だって、先輩だって、何も違わない……!!何も………ッ!!」


 

この主がこんなにも声を荒げることは珍しいな、とぼんやり思いながら適当に相槌を打つ。

彼もきっと返事を求めている訳ではないのだろう、ただ胸の中に渦巻く言葉を吐き出したいだけ。

きっとこの場に自分が居なくとも、こうして無意味に雫を落としていたのだろう。

 

それにしても、と歌仙兼定は思う。

そんなに悲しむくらいならば、初めから選ばせたりしないで強制的にその身を奪ってしまえば良かっただろうに。

そもそも彼らの前に姿を現さなかったとしても、彼らの肉体を奪い刀の姿に戻すことは出来たはずなのだ。

それなのに海尋は彼ら自身に彼らの道を選ばせた、そして散ることを選んだ者がせめて戦の中に散ることができるよう、こうして隊の中でも選りすぐりの刀剣を連れこの本丸に戦を仕掛けた。

海尋はそれをただ選択から逃げただと己を嘲弄したが、もしも自分がこの本丸の刀剣で、彼のその選択を知ったとすれば、感謝したのかもしれない。

だがそれを今更言ったところで、考えたところで、意味の無いことだ。

 

どれくらいの時間が経ったのかは分からない、ただしばらく歌仙兼定がよしなしごとを考えている間に次第に背中に聞こえる音は小さくなり、やがて時折鼻を啜る音が聞こえるだけになる。

そろそろ良いだろうか、と背後を顧みると、同じく歌仙兼定に背を向ける海尋は袖元で顔をごしごしと乱暴に拭っていた。

普段ならば手巾でも使うのだろうが、既に紅い模様の施された浄衣とあれば、気にする気も起きないのだろう。

 

最後に一つかそけき息をついて、海尋は手元に置いていた刀を手に取りくるりと振り返った。

歌仙兼定とはたりと目が合い、海尋は手にした鮫鞘のそれにちらりと目をやって、軽く肩をすくめてみせる。


 

「三十七人目、かな」

 

「君の命では一人目さ、……尤も、それが僕自身になるとは思ってもみなかったけどね」


 

はは、と笑って赤い目元をした海尋は庭へと下り、山積みにされた刀剣の上にそれを重ねる。

袖元を探り一枚の札を取り出して小さく何やら呟くと、途端に札はぼうっと炎を上げて燃え上がった。


 

「それは?」

 

「浄化の炎だってさ、本部も祟られちゃたまったもんじゃないからな」


 

積み上げられた刀剣たちの上へ、躊躇うこともなくそれを落とす。

札は燃え上がりながらひらりと一度宙を舞いその山へとたどり着くと、瞬間、自然法則に従うならば有り得ないほどあっけなくその炎は刀剣たちへと移った。

これを見せたくなかったのもあったんだけどな、と海尋がひとりごつ、確かに一部の刀剣男士にはとてもじゃないが見せられない光景だろう。

 

海尋は二、三歩引いて炎の煽りを受けない場所まで行くと、おもむろにそこに膝をついて何やら胸の前で手を動かし、静かに指を組み合わせた。

いつか、どこかで見たようなその光景に、歌仙兼定はすっと僅かに目を細める。


 

「……主は、切支丹だったのかい?」

 

「んー……ま、信仰心の有無で判断するなら違う、かな?

 でも、審神者としてこいつらのために祈ることは許されないからな」


 

伏せていた瞳を緩やかに持ち上げ、歌仙兼定を振り仰ぐ。

その姿が何とは無しにいつもとは違う雰囲気を纏っているように感じて、歌仙兼定は少しだけ口の端を下げた。

その事には気づいたのか気づかないのか、海尋は先程より小さくなった炎へと再び向き直る。


 

「だからこれは俺個人、ただの鈴鹿海尋としての祈りだ

これくらいなら許してくれたって良いだろ?」


 

そう言ってまた、静かに目を伏せる。

そうしているうちにも炎は自然法則には従わない速度で小さくなり、やがて灰すら残さずに消え失せた。

その場の芝生を焼け焦がせてはいるもののそこには何一つ残らない、海尋は瞼を持ち上げて暫くそこを見つめていたが、ふいにすいと立ち上がった。


 

「………学校の先輩だったんだ、ここの本丸の審神者」


 

歌仙兼定の方を振り返りはせず、けれど先程とは違い、話しかける意図を持った口調で。

それに気づいた歌仙兼定は取り出していた短冊と筆ペンを仕舞い顔を上げた、海尋がすっと顔を横様に向け、空を仰ぐ。


 

「サークル……趣味会みたいなのも一緒だったし、一緒に飲んだこともあるし、相談を聞いてもらったり聞いたりしたこともあった……いい人、だった」


 

海尋は眉を寄せ、化粧の落ちた、だが赤い目元をぎゅっと苦々しげに閉じた。

だがそれも一瞬のこと、その瞼に何が浮かんでいたのかは、歌仙兼定には窺い知れない。

黒曜色の瞳を開き、海尋はどこか中空を睨みつけるように見つめる。


 

「……俺は、こうはならない、絶対に」


 

その横顔は酷く脆く見えて、歌仙兼定はすっと立ち上がり海尋の側へと歩み寄ると、俄にばふっとその顔に向けて手巾を投げつけた。

うわっ、と声を上げるも反射的にそれを受け取るなんてことはできず、しっかり顔面で受け止めた海尋の物言いたげな半眼が手巾の下からずるりと現れる。

その顔は見慣れたそれで、歌仙兼定は少しだけ満足げにくすりと笑った。


 

「そのままの顔で帰るつもりかい?ほら、向こうで顔を洗っておいで」

 

「……お前なー、人が折角真面目に言ってんのに………」

 

「はいはい期待してるよ、ほら早く帰らないと文句を言われるのは僕なんだから」


 

ぶつくさと何やら文句を連ねながらも、海尋は大人しくそれに従って井戸の方へと歩いていく。

その背を見つめながら、歌仙兼定は先程の海尋の表情と、少し前に己がその命を終えさせた己と同じ存在の事を頭に浮かべた。

 

もしも彼が、ここの審神者と同じような選択をしたとすれば、自分はどうするのだろうか。

だがその想定は思った以上に不愉快で、歌仙兼定はかぶりを振って思考を散らした。

こうならなければ、こうさせなければいいだけの話だ、そう言葉に出すでもなく呟いて。

歌仙兼定は思考を今この時へと引き戻し、雑に顔を洗って戻ってこようとする海尋へと視線を戻した。

bottom of page