初邂逅
はじめに感じたのは、声。
誰かの声が聞こえる、……いや、声を聞いているのは、その声の持ち主の方だ。
語っているのは自分だ、この力を振るいたいと望むその声を、拾い上げる声が聞こえる。
手が差し伸べられるように声が聞こえる、存在しないはずの、手を伸ばす。
その声が触れ合った瞬間、花のように光が満ち溢れた。
足が地に着いた感覚を感じて、歌仙兼定はゆっくりと瞳を開いた。
ふわりふわりと桜の花弁のようなものが舞い散る、己に人の姿を与えた力の残滓のようなものだろう。
その光の花弁が舞い落ちて消え向こう側の景色が顕になる、そこには二人の人間の姿があった。
白い浄衣を纏い、同じく白い布で顔を隠した二人、その一方は微かに頷くと、歌仙兼定の方へと居住まいを正した。
「己が何者か、分かりますか」
「……僕は歌仙兼定、風流を愛する文系名刀さ」
僅かに思考を巡らせた後答える、その言葉をきっかけにしたように頭の中に記憶と、情報がほろりほろりと現れ始めた。
己の存在、ここに姿を現した理由、………刀剣男士という、存在。
歌仙兼定がす、とその瞳にはっきりとした意思を浮かべたのを認め、その人間はゆるりと頷いてもう一方の人間へと面を向けた。
「では、この者が何者か分かりますか」
歌仙兼定の視線がその者へと移る、黒髪をきっちりと結い上げたその者が、僅かに身を強ばらせた。
その者が何者であるか、それは一目見た瞬間から感じていた、供物として神に捧げられたその名を、口にする。
「鈴鹿海尋、………審神者として僕に人の身と力を与えた――僕の、主だ」
「では、後のことは追ってこんのすけを遣わせます、これから審神者としてよく勤めるように」
「はい、よろしくお願いします」
海尋に伴われ、歌仙兼定はこの本丸との出入り口となる門の前まで見送りに来ていた。
もう一方の人間はどうやら試験官のような者であったらしい、結局その者が男であるのか女であるかも分からぬまま、門を越えたその者はいつの間にか姿を消していた。
試験官を見送った海尋は、門を閉じると改めて歌仙兼定へと振り向いた、といっても白い面に阻まれその表情は分からない。
その背は歌仙兼定とさほど変わらず声も女のように高くはない、つまり男である、ということは辛うじて判断できる。
「そういう訳で、これからは俺に従ってもらうことになる、……ある程度の勝手は分かっているか、歌仙兼定」
「ああ、そのつもりだよ」
「そうか、……ひとまずはお前一人に色々とこなしてもらうことになる
食事や生活に関する類のものは俺がするが、戦闘や警備といったものはお前に一任する」
「分かった、その方が僕にとってもありがたいよ、まだ人の体というものの勝手が今ひとつ分からないからね」
建物の中へと戻る海尋のあとに従いながら、その言葉へ答えてゆく。
その声はどこか事務的で素っ気ない、……意識のない意識のなかで聞いた声とは、少しだけ違っている気がした。
歌仙兼定は前を歩く海尋の後ろ姿へと目をやった、顔を覆う白い布の下は、見えそうだと思う度にふわりと隠れてしまう。
「面倒をかけるが夜も警備をしてもらうことになるだろう、しばらくは夜も同じ部屋で寝てもらうことになるかもしれない」
「……まあ構わないけれど、まさか顔も見せない男の閨に呼ばれることになるとはね」
ほとりと言葉を口にして、その口をついて出た言葉に歌仙兼定自体がまずはっと目を見張った。
そんな言葉を言うつもりなど別に無かった、だが、その面の無機質さに微かに抱いた不信感がつい零れ出てしまったのだろうか。
前をゆく海尋が足を止める、そして、ゆるりと振り返った。
「……そういうつもりも趣味もない、そういう風に聞こえてしまったなら謝ろう、不快な思いをさせた」
「いや……僕の方こそ、おかしな事を言ってしまった、どうか忘れてくれ」
自分の口から出た言葉への動揺を隠せぬまま、歌仙兼定はすっと視線を外した。
人の身を得てすぐだからであろうか、そう思考を巡らせていた歌仙兼定を見据えたままの海尋が、おもむろにその白い布に手をかけた。
「…………見たいのか?」
「……見せてもいいものなのかい」
「さあどうだろうな、少なくともその判断は俺に一任されてる、………ただし」
す、と海尋が一歩足を進めて歌仙兼定との距離を詰める、面の下の輪郭が、少しだけ見えたような気がした。
「……この面の下を見てしまえば、それをどれだけ後悔しようと俺は責任を持たない、……それでも良いのか?」
これまでよりも、僅かに感情らしきものの、こめられた声。
試すようなその言葉に、声に、歌仙兼定は海尋のその白い面を見つめた。
……どういう、意味なのだろうか、その顔を見ることを後悔するようなものが、その面の下に収められている、ということだろうか。
それだけ醜い顔なのだろうか、それとも逆に、後悔するほどの美しい顔であるのだろうか。
歌仙兼定は思考を巡らせる、答えの出ないはずの思考をする時間を、海尋は何も言わないまま与えていた。
「構わない」
だがふたたび、言葉が口をついてこぼれ落ちる。
まるで思考よりも先に身体が動いてしまったような感覚に、歌仙兼定はまたも動揺を滲ませた。
その動揺を知ってか知らずか、暫し歌仙兼定を見つめていた海尋は、ゆっくりと頭の後ろに手をやった。
しゅるり、とその布を結ぶ紐が外される、白く無機質な面が、ふわりと外される。
中から現れたのは、若い男の顔だった。
目尻に朱を引いたはっきりとした黒い瞳に、適度に通った鼻筋、同じく僅かに朱の引かれたなりのいい唇。
年の頃は成人して間もない程だろうか、想像したような後悔するほど醜い顔ではなく、むしろどちらかといえば整っている方であると言える。
だが決して振り返るほど美しいというものでもない、……平たく言ってしまえば、普通、の顔だった。
面を外した海尋が真っ直ぐにその黒色の瞳を歌仙兼定に向ける、そして―――にやり、とその口の端を持ち上げた。
「なんだよその顔、思ったよりふっつーの顔でがっかりしたか?」
「…………は?」
思わず、歌仙兼定の口から雅さに欠けた間抜けな声が発される。
それ見て愉快そうに笑って、海尋はふんと無駄に勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「言ったはずだぜ?面の下見たあとで後悔したって俺は責任持たないって」
「………は」
「いやー、俺もお前との距離感どうしよっかなーって若干測りかねてたんだけどな?
やっぱ堅っ苦しいのって疲れるし、多分いつか化けの皮も剥がれるだろうし、なら早いほうがいいかなーって」
先程までの事務的な態度はどこに投げ捨ててしまったのか、親しげに笑いかける海尋に、歌仙兼定はしばらくその表情を固まらせて、やがて深い深いため息を付いた。
なんだそれ、失礼な奴だな、と海尋が不満げな声を投げかける、だが歌仙兼定が少し据わり気味の目を向けると、僅かに表情を強ばらせた。
「……つまり、被っていた猫ごとその面を外すと、それをきちんと説明もせずに僕に判断させたと、そういうことかい?」
「あー……まあ、その、うん、そうだな………」
今度は完全に据わった目を向けられた海尋は、ばつが悪そうに視線を泳がせる。
しばらくそうしていたが、やがて歌仙がふうともう一度ため息をつくと、少しだけ困ったように海尋が眉を寄せた。
「……騙すようなことして、悪かったな、お前が嫌なら元の態度に戻すから」
「いや、………君の面の下を見る事を選んだのは僕だよ、兼定に二言はない」
「……なんだよそれ、口癖か何かか?」
今度はそのまま口の端を上げて苦笑を浮かべる、よく表情の変わる人だな、とぼんやりと思った。
一度ゆるりと瞬きをして、もう一度海尋を見据える、海尋も、その視線に答えるように僅かに背筋を伸ばした。
「……君がどうであれ、僕の主であることに変わりはないからね」
「そっか、……なら、改めて」
ふ、と微笑みを浮かべて、海尋は歌仙兼定へと手を伸ばした。
伸ばされた手に不思議な既視感を覚える、意識のない意識で感じたあの声に、似ていたのかもしれない。
「この世界の過去を、未来を守るため、お前の力を借りたい、……俺に力を貸してくれるか、歌仙兼定」
「ああ、僕の力、君に預けよう、我が主」
差し伸べられた手を取る、その言葉に浮かべられた笑みと手の暖かさに、歌仙兼定もふっと笑みを浮かべた。