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たえて桜のなかりせば

「たえて桜のなかりせば、か」



ぽつり、と三日月宗近が呟くと、膝の上に頭を乗せた海尋が桜に向けていた視線をついと動かした。
黒曜の瞳とはたりと視線が絡む、ふ、と海尋が笑った。



「桜なんて見てない癖に、花見に誘ったのはお前だろう?」



まだ微かに肌寒い風が、涼やかに二人の間を抜けていく。
丸い月は空高くまで登っていて、普段は賑わしい本丸も今はひっそりと眠りについている。
先刻からずっと海尋を見つめていた三日月宗近は、彼の言葉にゆるりと首を振った。



「見ているとも、ほら、此処に」



そう言ってそっと海尋の頬に手を添え、親指でその目尻を撫でる。
海尋はしばし瞬きを繰り返すと、ああ、と納得したように息をついた。

彼の黒曜には、今を盛りと咲き誇る桜の花々が映り込んでいた。
この主はいつでもそうだ、それがどんなものであろうとこうしてその瞳にこの世界を映し出す。
そしてそれが不意に厭わしく思える時がある、今がまさにその時であった。



「主は桜が好きなのだな」


「んー? まあ日本人の刷り込みみたいなものだろう
それに、お前と初めて会った時だって桜が咲いていたし」



素っ気なく答えながらも、夜空よりも美しい瞳の中に桜を散らす。
その熱心な視線の一端に自分の存在が含まれているのは少しだけ気分はいいが、それでもこの不躾に主の瞳を占拠する薄紅を許すほどの理由とはならない。
少しだけ拗ねた態度を表出しながら海尋を覗き込むと、彼はふふ、と可笑しそうに笑った。



「もしかしてそれは嫉妬か? 心配しなくても三日月の方が綺麗だよ」



細められた瞳の中に、わずかに浮かぶ細い月。
桜のように映し出されたのではなく、その存在に刻み込まれた光に、ぞくりと身体の芯の内が震えるのを感じた。

何ものをも映し出す、それでいて何ものにも染まぬこの尊き黒曜を裂くように刻まれた、細く麗しき月。
人たるこの気高き存在をひとでないものにまで貶めた証、此れが誰のものであるかの確たる証。
確かに刻まれたその御印に、歓びと背徳と興奮と憐憫と情欲と、様々な感情が綯交ぜいなったものが湧き上がり、思わずほうと息が漏れる。
海尋は軽やかな鈴のように笑いながら、花びらの引っかかった三日月宗近の髪を梳いた。



「………何やら、えっちなことを考えてる顔をしている」



冗談めかして放たれた言葉に、感情がさらに撫で上げられる。
情動のままにそのまぶたに軽やかなくちづけを落とすと、海尋が続きをねだるかのように身動ぎをした。
体制を変えて海尋の背を抱き起こすように支えながら、もう一度、もう一度とまぶたの上にくちづけを降らせる。
けれどその奥のころりとした宝石がどうしても恋しくて、三日月宗近はそっと耳元に唇を寄せた。



「……目を、開けていられるな、主」



吐息混じりに囁かれたその言葉に、海尋がひくりと僅かに身をこわばらせた。
けれどそれを拒むことはしない、一度脇へと泳いだ視線はおずおずと元の位置へと戻される。
言いつけを守り己をまっすぐと見つめる海尋の頬を愛おしげに撫でて、三日月宗近は再び黒曜の色に唇を寄せた。

唾液を絡ませた舌で、ゆっくりとその瞳を舐め上げる。
は、と海尋が熱っぽい息を吐き出して、僅かにその身を震わせる、甘く辛い潮の味が舌先を撫ぜた。



「…………やめろって言っただろ、それ」



異物の侵入に生理的に瞳を潤ませながら、淡く頬を染めた海尋がぼやく。
睫毛の影の落ちた瞳は今は世界を映し出さない、けれど、月は然と其処に在り続ける。
それを見届けた三日月宗近は、ふふ、と満足げに笑ってみせた。



「さてどうだったか、忘れてしまったな」


「この呆けじじい……」


「はっはっは、今や主も十分にじじいさ」


「まーだ一桁違うもんねー」



既に百年を生きるいきものだとは思えない子供っぽい口調で言い捨てて、海尋がぼすりと三日月宗近の胸へと収まる。
そのまま上目遣いで己を見上げる海尋の姿に、いっとう笑みを深くしてその身体を抱きしめた。
ちゅ、と軽く音をたてて首元にくちづけを落とすと、瞼の奥に黒曜を隠して僅かに眉を寄せる。
いとおしい、この存在がいとおしくてたまらない、止めどないこころを流し込むように、そこ唇に己のそれを重ねた。



「そろそろ部屋に戻るか、主よ」


「……………ん、」



顔を俯かせたままで、海尋がこくりと頷く。
三日月宗近に身を預けたままのその身体を抱き上げて、互の温度を確かめ合うように寄り添いながらふたりは庭を後にした。

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