雨の景観
ざあざあという音が、開け放たれた執務室の襖の外側から聞こえる。
部屋から臨む庭はすっかり濡れていて、だが夏の真昼間ということもあってか梅雨の時期ように陰鬱な空気ははらんでいない。
むしろ朝から降り続いている雨の所為か、ここ数日と比べて今日は過ごしやすい気温が保たれていた。
「あー………」
だがそんな恵みとも言える雨を迎合もせず畳に転がる海尋をちらりと振り返って、和泉守兼定はふんとため息をついて手にした煎餅を一口かじった。
仰向けにだらしなく寝っ転がった海尋は、先程から背を向けて座る和泉守兼定の髪をするりと指で梳いては落としている。
いいなあ、綺麗だなあと呟きながらのそれはそう悪い気はしないものだったが、飽きもせずに四半刻もそれを続けられては嫌にもなってくる。
和泉守兼定は煎餅の残りを口の中に放り込んで噛み砕くと、また髪を梳こうとする海尋の手からするりと逃れ、海尋の方に向き直った。
「あのなぁ主、いい加減しゃんとしたらどうなんだ?
オレは国広と二代目にアンタをちゃんと見張るよう言われてんだぜ」
「俺だって兼さんのこと頼んだって言われてるー、まあお互い言わなきゃバレないって」
「そうじゃなくってだなあ……って聞いてんのか!」
海尋はごろりと転がると、今度はうつ伏せになって手を伸ばし、てやてやと和泉守兼定の毛先をもてあそぶ。
どうにもやる気の無さそうな海尋に、和泉守兼定はもう一度息をついてみせた。
「…………猫かよ」
「にゃーん」
「気持ちわりい」
「に゛ゃんち゛ゅうだ に゛ゃあ゛あ゛ん」
「なんでちょっと似てんだよ!」
「練習したことある奴絶対少なくないって、あーでもほんと羨ましいなぁー……」
そう言って海尋はまた和泉守兼定の髪をひと房すくい上げ、するりと指に流した。
確かに海尋の髪は和泉守兼定とは違って癖の強い黒髪だ、今も軽く後ろでまとめられてはいるがそんな事はお構いなしに跳ねまくっている。
仕返しのつもりでその髪をわしゃりと撫でてみる、ふわふわと柔らかい毛は思ったよりも手触りが良く、そして思ったよりもくしゃりと纏まりが無かった。
少し触っただけなのにすぐにぼさりと乱れた髪に思わず手を引くと、これでも頑張って髪を落ち着かせていたらしい海尋がじとりと睨み上げてきた。
「………な、結構凄いだろ」
「…………おう」
「あーもうほんとこれ何とかならねーのかなー、だから雨は嫌なんだよー……」
ごろりとまた仰向けになった海尋が、実に覇気のない声で呻く。
瞼を閉じて一息、そして再び開かれたその黒曜色の瞳が宿す光が、ほんの少しだけ揺らぐ。
それを認めてしまった和泉守兼定は少しだけその端正な眉を寄せると、わしゃりとまたその髪を乱暴に撫でた。
「うわ、お前これ結構頑張っ……」
「それだけじゃねえだろ、雨、嫌いなの」
海尋が上げようとした抗議の声を遮って、和泉守兼定がことばを落とす。
すっと海尋が表情を落とす、和泉守兼定はちらりとそれを見やると、どこか不貞腐れたように視線を逸らした。
「………和泉守に気づかれてるとは思わなかった」
「何だよそれ、一体俺をなんだと思ってんだよ」
「えーだってさー……わー……マジかよー………」
海尋が戸惑うような表情で、無理矢理に口の端を釣り上げる。
珍しくどこかぎこちないその表情に、和泉守兼定がさらに不機嫌そうにふんと鼻を鳴らした。
「困ったなー、表に出すつもりじゃなかったのに
……うん、俺も少し、気が緩んでたんだろうな、気をつけないと」
「………何でだよ」
「何でってそりゃ、気づいたってお前たちも迷惑するだろ?
俺が勝手に雨嫌いなだけなんだし、それで気とか使わせたくないし……」
「別に……迷惑じゃねえ」
そう言って、和泉守兼定はくしゃくしゃと海尋の髪を撫でていた手を頭ごと自分の方へ引き寄せた。
こてん、と海尋の頭が和泉守兼定の腿の辺りに触れる、海尋はきょとりとした顔で目をぱちくりと瞬かせた。
不器用に頭を撫でるその手を辿り和泉守兼定を見上げる、顔は全力で向こうの方へと背けられたままだ。
「迷惑じゃねえから、なんっつーか、その…………少しは、俺にも甘えてみろよ」
ぶっきらぼうに投げられた言葉に、海尋がほんの少しだけ、気づかれないほどに少しだけ息を詰める。
黒曜の瞳がぱちり、ぱちりと瞬く、そして唇からふっと息が吐き出され、ゆるりとその端が持ち上げられた。
「………兼さん、顔赤いぞ」
「う、うるせえ!」
「ははは、まーそう言うんならお言葉に甘えて、……もうちょっとだけ、こうしてても、良いかな」
こてん、と少しだけ首をかしげるようにして、海尋がその頬を和泉守兼定の方へ寄り添わせた。
少しだけゆらめく黒曜がすいと伏せられる、先程までと、いや、いつもと違うその態度に、和泉守兼定の鼓動が不自然に脈を打つ。
「………良いっつってんだろ、そのぐらい許されるくらい、アンタは頑張ってんだ」
それに気づかないふりをして、ぼそりと和泉守兼定が言葉をこぼす。
雨の音に遮られそうなほどのそれを受け止めた海尋は、ふ、ともう一度口の端を上げた。