さいご
ざぷん、ざぷんと、開け放たれた窓から波の音が迷い込む。
鼻腔を撫でる生臭い潮の匂いを肴に、歌仙兼定は手にした盃を傾けた。
甘くて辛い味が舌の上で転がり、その香が潮の匂いを覆い隠す。
低い月が照らす海は、きらきらと光る癖に暗いその底を見せない。
微温びた風が頬を掠める、歌仙兼定は自分と同じように海を眺める主へ視線をやった。
「寒くはないかい」
いや、と主が首を振る。
明かりを消した病室は、それでも丸い月に照らされ思うよりも明るい。
主の深い皺の刻まれた顔は、月明かりの下で穏やかに緩められていた。
初めて共に月を眺めてから、一体幾年が経つのだろうか。
少なくとも初めのひと振りとして歌仙兼定を選び審神者となった彼が、年を経て、愛する女性と一緒になり、子をもうけ、そのまた子が生まれるまでの時間を共に過ごした。
老いと共に審神者としての力も衰えた今は、既に歴史修正主義者との戦いから一線を退いている。
いつだって彼の周りを取り囲んでいた刀剣男士たちもひとり、ひとりと新たな主の元へ譲り渡され、彼の側に残るのは今は歌仙兼定ただひとりだ。
戦に送り出すこともできなくなった彼の下で、歌仙兼定は酷く静かで穏やかな日々を過ごしていた。
刀として、戦の道具として作られたはずの己がこのような生き方をするのが正しいのかどうかは、分からない。
けれどそもそも生き方、だなんて言い方をできる刀剣男子という生ならば、老いてゆく主と共にこの身を腐らせていくのもそう悪くはないだろう。
「今日は、海の音がよく聞こえる」
「ああ……静かな夜だからね」
静かな声で落とされた主の言葉に、相槌を打つ。
主は重くなったまぶたを緩慢に伏せると、ふふ、と笑った。
なにもおかしな事を言ったつもりは無かったのだが、そう眉をひそめて主を見つめると、主は微笑みを浮かべたままで歌仙兼定の盃にとくとくと酒を注ぎ足した。
なんとなく誤魔化されたように感じるものの主からの酌を無下にする訳にもいかない、歌仙兼定は盃を軽く持ち上げると、一口でくっと飲み干した。
「主は、飲まないのかい?」
「……ああ、やめておくよ」
「そう」
戯れのように聞いてはみたものの断られることは想像に難くなかった、そもそも主がこうして白い部屋に閉じ込められているのも、食事が摂れなくなったからなのだから。
彼が愛した食事という行為ができなくなってもうふた月程になるだろうか、それでも細い管に繋がれて生き続けていられるというのだから、人間とは不思議なものだ。
深刻な理由があるわけではない、ただ身体の衰えによる機能の低下により食べ物を嚥下することができなくなった、ただそれだけで、だからこそ何も手を打つ手段はない。
主は空になった盃にもう一度酒を注ぐと、再び月の照らす海へと目をやった。
歌仙兼定も今度は飲み干すことはせずに盃を窓辺に置いて、主と同じ方向を眺める。
相変わらずさっきよりは高くなった月の光を受けてきらきらと光る海は、ざぷん、ざぷんと律動を繰り返していた。
「人は、」
不意に口を開いた主が、ぽつりと呟く。
すっと枯れた腕を持ち上げて海を指差す、細かに揺れ動くその指先の示す先に、思わず視線が奪われる。
「海へ、還るそうだ」
静かな声で告げられた言葉に、歌仙兼定ははたりと瞬きをした。
人は、海へ、還る。
主の声がくるくると頭の中をめぐる、酔いでも回ったのだろうか、言葉の意味を上手く捉えることができない。
ちらりと主の顔を盗み見る、ゆっくりと腕を下ろした彼の顔は、どこまでも穏やかだ。
「君も、海へ還るのかい」
頭の中から、直接こぼれ落ちたようなことば。
それが自分の口から発されたものだと気づいて、歌仙兼定は思わず口元に手をやった。
主はそれには気づかないのか、それとも気に留めないのか、どうだろうなあ、とひどく穏やかに瞼を伏せた。
肯定はしない、けれど否定もしないその返事が、変に気持ちが悪い。
人だから、というだけの理由で、あんな暗い水の中へと行ってしまうというのか。
「主、それは困るよ、僕は海へはついて行けない」
歌仙兼定は、人ではない。
海の中では錆びて、朽ちてしまう、たとえ今は人の身を得ていようとも、海へはついて行けない。
主が肩を揺らしてくつくつと笑う、一体何がおかしいというのだろうか。
流石に気を害した事を伝えようと軽く息をつくと、悪かった悪かった、と言って主が笑いかける。
その顔はどこまでも穏やかで、静かで――そんな顔をした人のことを、歌仙兼定は見たことがあった。
それがいつであったか記憶は定かではないし、あるいは“記憶”というものを持つ前のもの、歌仙兼定という一振りの鋼の塊であった時のことかもしれない。
「君は、死ぬのかい」
「そうだな」
今度は、確かな肯定。
そうだ、これは、死を受け入れたものの、顔だ。
死を覚悟した、受け入れたものは、老いも若きも関係なく皆何故か一様に穏やかな顔をする。
主が浮かべるこの酷く穏やかな顔は、そうした者たちに酷似していた。
確かに、一般的に平均と言われる年齢にはまだ至らないかもしれないが、それでももう死んだとしても若くしてとは決して言われない年齢だ。
老いて、衰えて、そして死んだとしてもなにもおかしくはない、おかしくはない、はずなのに。
「……………駄目だ」
頭が、こころが、それについて行けない。
どうしても、この人が死ぬという、その事実を認めることができない。
だってそうだ、ずっと、ずっとこの主と共に、その側に居たというのに、どうしてそれが出来なくなるというのか。
どうして、人であるというだけで、あの深い海の中へと、どう足掻いても自分の手が届かないところへと、行ってしまうというのか。
自分を、置いて、ひとりで。
「駄目だ、主」
「歌仙」
「そんなこと、許されないよ、君は、君が、駄目だ、僕はそこについて行けない」
「……歌仙兼定、」
穏やかな、穏やかな声で呼ばれる、己の名。
いつの間にか主の肩を掴んで詰め寄っていたことに気づいて、はっとその手を引く。
困ったような笑みを浮かべていた主と視線がぶつかる、主は歌仙兼定の顔を見ると、ふふっ、と小さく吹き出した。
「雅じゃないなあ」
くつくつと可笑しそうに笑いながら伸ばされた手が、歌仙兼定の頭を撫でる。
まるで子供にするようなそれに不覚にも忘れていた恥が湧き上がり、ばつが悪そうにそっと視線を外す。
主はそれすらも可笑しかったのかまたひとしきり笑って、そしてふっと息をついた。
「……お前がそんなになるほど、大切に思ってくれたんだな」
ひとつそう呟いて、主はおもむろに瞼を伏せた。
そしてしばらくの間沈黙を落とすと、頭を撫でていた手をすっと引いて、仕方ないなあ、と呟いてからその手を歌仙兼定に向けて広げた。
「ならお前の好きにするといい、歌仙」
まるで何事でもないかのように放たれたことばに、歌仙兼定は思わず息を詰めた。
……それがどういう意味なのか、分かっているのだろうか。
いや、この主のことだ、分かっていないということは無いだろう。
分かっていて、こんなことを言い出すのだ。
穏やかに口元を緩めたままの主は、憎らしいほどにいつもと変わりなくそこに在る。
光に吸い寄せられる夏の虫のようにふらりと身体が傾ぎそうになる、けれどそれを振り払うように歌仙兼定は弱々しくかぶりを降った。
「……主、それは、いけない」
「何故」
「何故って、当たり前だろう、何を言っているんだ、君は」
「そう珍しい話でもないさ」
「君が、人として生きられなくなる」
「今更だ」
「奥方様に、怒られるよ」
「……あれを、泣かせてしまうかもしれないな」
「主、」
「これは褒美だ、歌仙」
ゆっくりと伸ばされた腕が、歌仙兼定を捉える。
その腕から逃れることもできず、背に回された手があたたかく触れた。
ぽん、ぽん、とあやすように背を撫でられる、それが、酷く心地よい。
真っ直ぐと、己だけに向けられるその瞳から、目を逸らすことができない。
「……お前は、いつだって俺の側にいてくれた」
静かな心地のよい声が、耳朶を撫でる。
ことばが、ぽたり、ぽたりと落ちては、じわり、じわりと染み込んでゆく。
「お前がいなければ、きっと俺は審神者にはなれなかった
俺が苦しかった時も、嬉しかった時も、立ち止まった時だって、いつだってお前は側にいた
今だってこうして、さいごまで一緒に居てくれようとしたんだ、なあ、歌仙兼定」
黒曜色の瞳が、笑う。
老いてなおうつくしいその色が、歌仙兼定という存在を捕らえる。
ああ、駄目だ。
「……これは褒美だ、お前だけの、お前だけに与えられた誉れなんだよ」
「あるじ、」
救いを求めるかのように、その痩せ細った身体に手を伸ばす。
その身に触れて、腕の中へと閉じ込める、淡く焚き染められた香の向こうの、甘い香り。
浜辺に咲く白い花にも似たその香りは、主の審神者としての力だ、己の存在を形造る根源とも言えるその力は、いつだって恋しい。
細くあたたかな腕が、優しく己を包む、甘い香りが、なお一層頭の中に流れ込む。
ああ、きっと。ほんとうは、ずっと昔から、この人のことが。
歌仙兼定は、腕の中の主の身体をきつく抱きしめた。
骨の軋む音が聞こえて、主が僅かに息を詰める、一瞬動きを止めた手が、なおも緩やかに背を撫ぜる。
「……後悔しても、もう遅いぞ」
「ああ」
「君が欲しい、君を、手放しはしない」
「……ああ」
「君を、連れて行く」
「………ああ」
穏やかな声のままで少しだけ苦しげに息を吐き出す主を、さらにきつく、きつく抱きすくめる。
背を撫ぜる手がゆるゆると動きを鈍らせ、止まった。
ゆっくりと腕を緩めて、静かに瞳を伏せる主の頬にそっと手を添える。
「君は僕の、僕だけの主だ、 」
とろけるような顔で至上の宝の名を囁いて、歌仙兼定はその唇にくちづけを落とした。
***
「おじーちゃん!!!ちょっと聞きたいことがあ―――」
すぱあん!と勢いよく祖父の病室の扉を開いた主は、ぴたりとその動きを止めた。
部屋の中を見つめたままぱちぱちと瞬きをする主に、小狐丸は首を傾げてみせる。
「どうなされたのですかぬしさま、……おや、出かけられておるのか」
何故か固まったままの主ごしに病室を覗き込む、部屋の中はもぬけの殻で明かりもつけられていない。
こんな時間に珍しいことだ、窓は開け放たれたままで、微温い潮風が扉を抜けていく。
窓から月明かりが差し込んでいるためか病室は思うより明るい、月見にでも出かけたのだろうか。
「この時間ならば直ぐに戻られましょうが、どうされま」
「歌仙兼定が居ない」
小狐丸の言葉を遮って、ぱちりぱちりと瞬きを続ける主が呟く。
それは見れば分かる、と一瞬疑問符を頭の上に浮かべかけ、はっとその意図に気づいて病室に視線を戻した。
それほど広くはない病室の中、そこには誰の姿もない。
あの人が、どこにもいない。
「……おばあちゃんに知らせてくる、小狐はここに」
「………相分かりました」
くるりと踵を返して駆け出す主の背を見送ってから、ゆっくりと病室の中に足を踏み入れる。
窓辺に置かれた二脚の椅子、その一方の側には徳利が、一方の側には盃が置かれたままだ。
盃に注がれた酒が、風を受けてゆらゆらとその水面を揺らめかせる。
「……最後の最後で辛抱ができなんだか、この不忠義者め」
おもむろにその盃を手に取って、小狐丸が呟く。
そしてその盃を掲げると、ぱしゃり、と海に向かってそれを撒いた。
かつての主の名を口ずさむ、そしてふと口の端を持ち上げると、小狐丸は深々と頭を下げた。