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月と黒猫の昼日中

眠気を誘う春の陽気に、海尋はくあ、とあくびを漏らした。

執務部屋から見える庭では見るからに長閑そうに桜の花びらが舞っている、普段ならばもう少し賑やかなはずの本丸は、今日はいやに静かだった。

 

それも当然のこと、普段この本丸で寝起きする刀剣男士たちは、今日はそのほとんどが本部へと招集されていた。

刀剣に宿る付喪神でありながら人の肉を与えられ、敵を斬ることを存在意義とする彼らは、否が応にもその身に穢れを溜め込む。

よって数月に一度、その穢れを祓うため彼らは本部へと招集される、勿論本丸はほぼ丸裸になる訳だが、そこは政府特性の強固な結界が張られるため、むしろ普段よりも安全なくらいである。

尤もその結界のために今日は一日外出もできない、刀剣男士も出払っているため当然出撃もできない海尋は、もう一度大きくあくびを漏らした。

といっても全員が全員召集されているという訳ではない、いざという時のため、近侍としてひと振りだけ本丸に残すことが許されている。

目元に浮かんだ生理的な涙を拭いながら、海尋はそのひと振りのことをちらりと垣間見た。

 

湯呑を手にしたまま庭先を見つめる、青い狩衣を纏った人の貌のもの。

ただそこに存在するだけで空気までもを色付かせるような雰囲気を纏った彼は、相変わらず何を考えているのか分からない不思議な色彩の瞳に、散り落つる花びらを映していた。

 

その美しさから天下五剣の一つとして数えられると言われる刀剣、三日月宗近。

少し前にこの本丸にその姿を顕現させた彼は、まだ戦に赴いた回数も少なく、穢れもさほど溜め込んでいないということで、今回の招集から外された。

そのため必然的に今回残される近侍ということになったのだが、正直に言うとこの三日月宗近のことが海尋はあまり得意ではなかった。

彼の何が悪い、という訳ではない、ただその稀少性と実力、そして美しさから多くの審神者に熱望される彼が、こんな実力も戦歴も無いような通り一遍の本丸に存在していることへの、遠慮、とでも表現すればいいのだろうか。

尤もそのような些末なことを気にするような人物ではない、ということを、その気にしなさすぎる性格の所為で引き起こされた幾度かのトラブルによって重々承知はしている、している、のだが。

 

こちらの視線に気づかれぬうちに、海尋は机に置かれた書へと視線を戻した。

何の意味があるのかは知らないが、本部へ提出する書類の一部はデジタルのものではなく手書きで、しかも墨と筆で書かれたものでなければいけないと定められている。

提出の期日までにはまだ日があるものの、この際書にうるさい者たちが居ないうちに済ませておこうと墨を磨ったのだが、思った以上にかの三日月宗近と二人きりという状況は我が身にストレスを与えるらしい。

デジタルの文字と違い、書き手の心理状況を鮮やかに反映する墨の跡に心の中で毒づきながら、凝った首をほぐすためにぐいいと背を逸らして天井を仰いだ。


 

「…………ん?」


 

その途中、先程までそこにあったはずの青が視界を掠めなかったような気がして、首を正面の位置まで戻す。

どうやらそれは気のせいでなかったらしく、湯呑を残して三日月宗近はいつの間にか執務部屋から姿を消していた。

まるで夢や幻と消えてしまったのかと思う、が、直様それを頭の中で否定した、流石に完全に消えてしまったのであれば、主たる海尋がそれを気づかないはずはない。

別に放っておいて何か問題があるという訳でもないのだが、何となく気になった海尋は切りのいいところまで筆を滑らせると、それを置き足を解いて立ち上がった。

 

執務部屋を出てきょろきょろと辺りを見渡すと、思いのほかその姿はすぐに見つかった。

三日月宗近は、庭先でしゃがみこみ一匹の黒い猫の喉元を撫ぜていた、舞い散る桜が、揺蕩う池の水面が、彼の美しさを飾る額縁のように煌く。

一枚の絵画のような、と表現することすら安っぽく感じられる浮世離れしたその光景に、海尋は思わず呼吸を忘れたかのように息を詰めた。


 

「そんな所に突っ立ってどうした、主よ」

 

「へ………あー、いや……お前に、見蕩れてた?」


 

いつから気づいていたのか、こちらを見もしないまま唐突にかけられた声に、海尋は別段悪いことをしているという訳でもないのにしどろもどろになりながら答えた。

三日月宗近が優雅な所作で海尋を振り仰ぐ、流れ落ちる髪は、鈴の音でも立てそうなほどに滑らかだ。

何となくばつが悪くなってその不思議な色彩の瞳から目をそらす、かと言ってその場から立ち去るのもどうかと思って、海尋は縁側へと腰を下ろした。

 

三日月宗近は海尋のことなど意に介することもなく、どこか袂の辺りから煮干しを取り出し、掌に乗せてその猫へと差し出す。

黒猫はすんすんと鼻をひくつかせると、三日月宗近の掌から煮干を咥え取りその場で丸くなって咀嚼を始めた。

海尋は思わずほんの少し眉をひそめる、その黒猫は以前海尋が拾ってきた猫だった。

飼っている、というほどのものでもない、ただ親兄弟を亡くして怪我をしていた猫を拾ってきて、手当をして、庭の隅の人目のつかないところに定期的に餌を置いていると居着いた、ただ、それだけの猫。

最近ようやく海尋のことを威嚇しなくなってきたし、ある程度までは近づいても逃げなくなってきたし、かといってまだ触らせては貰えていない猫だ。

別に、それだけだ、飼ってないし、悔しくなんてない。


 

「腹が空くと辛いからな、俺も、この身を得て初めて知った」


 

海尋の内心を知ってか知らずか、三日月宗近が黒猫に煮干を与えながら鷹揚に語る。

その口ぶりといい、煮干しをどこぞに忍ばせていた事といい、こうしてこの黒猫に餌を与えるのは初めてではないのだろう。

最近餌の減りが遅いと少し心配していたのだが、どうやらそういう事だったらしい、別に悔しくない。

 

煮干しを食べ終えたらしい黒猫はプルリと一度首を振ると、三日月宗近の手に甘えかかるようにごろりと擦り寄った。

お日様の温もりを集めたその柔らかい毛をしばらく撫でた後、三日月宗近はおもむろにその小さな体を抱え上げると、ついと振り返り海尋の膝の上へとその毛玉を乗せた。

あまりに自然な動きに海尋は一瞬何の違和感もなく己の膝の上へと視線を落とす、が、ふた呼吸後にその光景の異常さに気づいてふげっと奇妙な声を上げた。


 

「はは、主よ、そのまま立つと猫が逃げてしまうぞ?」


 

三日月宗近の言葉に思わず浮かせかかった腰を慌てて据えなおし、がばりと口を押さえて膝の上の猫を脅かさないように声と呼吸を押さえ込む。

黒猫はしばしぱちぱちと目を瞬かせていたが、ふと口を押さえたままの海尋を不思議そうに見上げた、逃げる様子は、無い。

海尋はおそるおそる口から手を外し、その毛玉の喉元にゆっくりと指を伸ばした。

柔らかい毛の奥の、柔らかい喉元を静かに撫でる、黒猫はごろごろと喉を鳴らして自分の心地いい箇所を指元に擦り付けてきた。

 

お前、人がどれだけ、という言葉を飲み込んで、もう片手で耳の裏の辺りに指を埋める。

膝の上がだんだんと温かくなってきて、指先はふわふわと心地よい感触に包まれていて、思わず口元が緩むのを感じた。


 

「………可愛いなぁ……柔らかいなぁ……」

 

「うむ、可愛いな」


 

ついこぼした独り言に相槌を打たれ、海尋ははっと隣に立つ三日月宗近の存在を思い出した。

他人がいることをすっかり忘れていたことが気恥ずかしくなって、ちらと目線だけで三日月宗近の方を窺う。

人のことを見透かしてくるような不思議な色彩の瞳は、今は黒猫の方へと向けられている、だがこの距離ではすぐに海尋の視線に気づいたのか、はたと首を傾げるように海尋と目を合わせた。

 

淡く、深い蒼の中に、三日月が浮かぶ。

何度見ても不思議で、言いようもなく美しい瞳だ、向けられる視線は、先程まで黒猫に向けられていたものと、同じ。


 

「どうかしたのか、主よ」

 

「ん………いや」


 

膝の上で喉を鳴らす黒猫に視線を戻す、あれだけ寄り付こうとしなかった猫は、何の違和感もなく海尋の膝の上で和んでいた。

きっとこの三日月宗近という刀にとっては、自分もこの猫も同じようなものなのだろう。

ただ見つけたから、懐かれたから餌を与えたように、ただ見つけたから、ここに現れ力を貸している。

ならば自分も、この猫のように気まぐれに逃げようが人の膝を占領しようが、きっとこの男は何一つ気にしないのだろう。

ふ、と口の端を持ち上げ息をつくと、三日月宗近は相も変わらぬ緩やかな笑みを湛えたまま小さく首を捻ってみせた。


 

「………そろそろ昼も近いし、休憩にしようかと思ってな

 今日は人数分作らなくて良いから凝ったものもできるけど、食べたいものとかあるか?」

 

「ふむ、ならば先日食べたらざにあとやらが食べたいかな」

 

「しっかり手間のかかるもん選んでくるな、昼遅くなったらお前のせいだぞー」


 

ふわふわの毛皮に包まれていた指を名残惜しくも離して後ろに手を付くと、黒猫はぴくりと耳を震わせ今まで大人しくしていたのが嘘のように膝から飛び降り、たっと走り去った。

三日月宗近がおや、とその姿を追う、海尋は内心この野郎と思いながら、一度体を伸ばすと立ち上がって厨の方へと足を向けた。

 

存在を忘れられた墨と筆がすっかり固まった姿で発見されるのは、もう少し先の話。

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