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また明日

書庫の扉をノックすると、中からどうぞ、という声が聞こえた。
ドアノブをひねり扉を開く、少しだけ埃の匂いのするその部屋で、彼はいつものように本を広げ椅子に腰掛けていた。
藤色の柔らかな髪に書庫には似合わない着物姿、胸には牡丹の花を飾るその人の貌をしたもの――歌仙兼定は、海尋の姿を認めると少しだけその目を丸くしてみせた。



「一瞬誰か分からなかったよ、海尋」


「あはは……かもなー、この格好で来るの初めてだし」



海尋は苦笑いを浮かべ、己の身にまとった衣服の袖を引っ張り掲げてみる。
この無機質な書庫に似合わないといえば海尋も似たりよったりだ、海尋はいつものラフな洋服ではなく、浄衣をその身に纏っていた。
普段は適当に束ねているだけの髪も頭の上にきっちりと結い上げ烏帽子を被っている、審神者の制服とも言える装束だ。
ふむ、と口元に手をやったまま歌仙兼定がその姿に視線を滑らす、微妙に照れくさくなってきて海尋は頬をかいた。



「で、感想は?」


「馬子にも衣装という奴だね、なかなか様になっているじゃないか
 ……ただ、まだ服に着られているというのは否めないけれど」


「やっぱりかー、やっぱもうちょっとこれ着て動く練習しといた方が良かったかな」



ううむ、と唸りながらその場でくるりと一回転してみせる。
初めて着た時よりは幾分マシになったとはいえ、未だこの袴やら沓やらで歩き回るのが慣れているとは言えない。
なんとなくいくつかポーズを取ってみていると、ふっと苦笑を浮かべた歌仙兼定が本を閉じて立ち上がった。
袴も着物も何の造作もなく着こなした彼は扉の前で無意味に動き回る海尋の傍まで来て足を止めると、ふっと綻ぶように微笑んだ。
その瞳がどこか真面目な光を宿していることに気づき、海尋も動きを止めて歌仙兼定を見返す。



「でも今日来てくれて良かったよ、君に頼みたいことがあったんだ」


「頼みたいこと?」



海尋が訝しげに眉をひそめる、普段別に頼みごとなどしない彼がこんなことを言い出すとは、思ってもいなかった。
頭上にはてなを浮かべる海尋に歌仙兼定はふっと苦笑を浮かべ、おもむろに海尋へと手を差し出す。
その意図するところを掴みかねて海尋がきょとんと目を丸くする、歌仙兼定はその長い睫毛を緩やかに瞬かせると、ゆるりと唇を開いた。



「海尋、僕とお別れをしてほしい」


「は」



その言葉の意味を理解するのに数秒、意味を理解してもその意図を理解できずに、海尋はさらに頭上にはてなを浮かべる。
歌仙兼定は穏やかな微笑みを湛えたままで、海尋を見つめた。



「お別れ、って……むしろ明日からは毎日のように顔を合わすことになるのに?」


「君にとってはそうでも、僕にとってはどうだか分からないからね
 ……今の記憶を全て失った僕が、本当に僕であると断言できるのかどうか」



何事でもないことのように告げられた言葉に、海尋がはっと息を呑む。
そうだ、今日歌仙兼定は一度今の主の力の庇護下から完全に離れ、その姿をただのひと振りの刀へと戻す。
彼ら刀剣男士の記憶はその人の身に宿される、……肉体を一度完全に手放せば、その記憶も零へと戻るのだ。
その記憶を残す事も不可能ではないが、前の審神者の影響をも残すことになるためあまり推奨されるものではない、初心者たる海尋を新たな主とするのだから尚更だ。
けれど、改めてそのことを思うと躊躇いが生まれる、全ての記憶を失うなど、怖くは、ないのだろうか。



「……やっぱり、記憶を残すようにしたほうが」


「それで君が失敗をするような事があっては元も子もないからね
 それに、君が覚えていてくれるならば僕はそれでいいさ」


「けど……」



瞳の奥を揺らめかせ俯く海尋とは対照的に、歌仙兼定はどこまでも穏やかな瞳でふっと息をつく。
一度手を下ろして海尋に一歩あゆみ寄りその肩に手を置く、顔を上げた海尋を翡翠色の瞳が捉えた。



「それに、君もきちんと僕とお別れをしてくれないと困るよ」


「……どうして」


「君と友であった僕とは、今日でお別れだからね
 明日から僕は君の友ではない、……君の刀、君という主の下でこの刀を振るう、刀剣男士だ」



真っ直ぐな瞳に射抜かれ、海尋は息をすることも忘れたようにその瞳に見入った。
……そうだ、明日この歌仙兼定を顕現させられれば、その時から自分は審神者――この刀の、主となるのだ。

一度視線を落として瞳を閉じ、深く息を吸って、吐き出す。
そしてもう一度顔を上げて、その翡翠色の瞳を正面から見据えた。
歌仙兼定はもう覚悟を決めている、ならば自分が、彼の主となる者が、その覚悟を受け取らない訳にはいかない。



「………分かった、これでお別れだ、歌仙」


「ありがとう」



ゆるりと微笑みを浮かべ、歌仙兼定がもう一度海尋に手を差し伸べる。
今度こそ海尋はその手をしっかりと握り返した、広くてしなやかな手であった。
いつも本ばかり手繰っていたこの手が、明日からその腰に帯びた刀を振るうことになる、海尋の、為に。



「君と過ごした時間は有意義なものだったよ、とても楽しかった」


「俺も凄く楽しかったよ、……友達ともう会えないってのは、ちょっと寂しいもんだな」


「……どうか、僕のことを忘れないでくれよ、海尋」



最後にほんの少しだけ寂しげに目を細め、するりとその手が離れていく。
それを追うことなど許されず、海尋はきゅっと掌を結ぶと、ゆっくりと腕を下ろした。
僅かに目頭の奥が疼くのに気づかないふりをして、海尋は歌仙兼定へと無理矢理に笑いかけた。



「じゃあ、俺そろそろ帰るな
 今日は一応これ見せに来ただけだったし、なーんか今から禊やら何やらしなきゃなんないっぽいし?」


「ああ、じゃあ、また明日」



何の含みもなく、まるで何でもないことのように放たれた言葉に、思わず再び息を詰めて歌仙兼定を見返す。
歌仙兼定は悪びれもなしにいつものような余裕ある笑みを湛えている、先ほどの表情などまるで無かったような態度だ。
その飄々とした様子に思わず苦笑が浮かぶ、それは無理矢理に作った表情でもなんでもない。



「全く、一体どっちなんだよ?」


「さあね、明日になってみれば分かるさ」



とぼけるようにそう答える歌仙兼定に、はは、と海尋が笑い返す。
そして海尋はくるりと踵を返すと、ドアノブに手をかけて歌仙兼定の方を振り返った。
いつもと同じ、この書庫に似合わない癖にどこかしっくりと馴染んだその友人の姿を、瞳の奥へと焼き付ける。



「……また、明日」



まじないのようにそう口にして、海尋はぱたり、と書庫の扉を閉じた。

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